最近まともに菓子を作ってはいなかった。
彼女と一緒に居たころは、調子のいい時は二人でキッチンに立って笑いながら作っていたというのに。
鈍く銀色に輝くボウルに、濃茶色のどろりとした液体が広がる。
くるりとゴム製の箆を回せば、まだ少々固形を残したペーストが持ち上がって、下へと落ちた。
ボウルの縁に触れている指先から、生ぬるい温度を感じた。もう少し湯を足した方がいいだろうか?
ミルクでは、スイートでは甘すぎる。ほんの少し苦味を加えたビターとオレンジリキュール。
浅いミルクパンで沸騰直前まで温めた生クリームをゆっくりと加えれば、白と茶が入り混じったマーブル模様。
甘い香りに包まれる。そこまで甘いものが好きではない彼のことだから、きっと苦い位が丁度いいだろう。
喜んでくれるだろうか。そう考えて自分が思っていた以上に楽しんでいることを自覚した。
切り分けた一片を、セロファンで包んで更に薄青の包みに入れる。
予想通りの出来に、思わず笑みが零れた。これなら彼にあげても大丈夫だろう。
彼は今日だって相も変わらず走っているのだろう。探すのに少し骨が折れるかもしれないが。
出来るだけ早く渡したい。少し肌寒い空気が身体を刺す。走ればどうせ体温も上がるだろう、とそのまま駆けだした。
街へと向かえば、人だかりが視界に入る。何かイベント事だろうかと視線を巡らせる。
近付けば、見慣れた、困ったような表情の青。手にしているのは、ピンクや赤で包まれた…
心臓が萎縮したように痛みが走る。針でちくりと刺されたような、苦しさ。
これ以上見ていたくなくて、踵を返した。手に持った包みは、そのままに。
反射的に自宅へと戻ってきてしまった。あんなに沢山貰っているのだから、自分のがあったら迷惑だろう。
これ以上彼が受け取る姿を見ていたくなかった、というのが正直なところなのは知らないふりを決め込んだ。
どうせ今頃は沢山の菓子の山の中だろう。消化しなくてはいけないものが一つ増えるよりは、いっそ自分で処分してしまった方がいい。
惨めな思いをするよりは、自分から断ち切ってしまった方が遥かにマシだった。
ダストボックスへとラッピングもそのままに放り込んでしまおうと思った矢先、軽いノック音が部屋に響く。
開けば先程街で見かけた彼だった。
「…何の用だ」
「チョコ。くれるんだろ?」
さも当然のように平然と言葉を紡ぐ。
もしかして、楽しみにしていてくれたのだろうか?
淡い期待に胸が躍る。が、つい先程見たではないか、あんなに沢山受け取っている彼の姿を。
自分のなどより、美味なものは沢山あるだろう。
「僕が、君に?冗談は程々にしておくんだな」
「じゃあこれは、勝手に貰っても構わないんだな?」
彼が持っているのは捨てようとしていた小さな包み。何時の間に、と思うよりも先に手が伸びた。
「誰があげると言ったんだ!」
「だって、さっき渡しに来てくれたんだろ?」
問いかけに ぐ、と言葉が詰まる。事実ではあるが、離れた場所でどうして彼が気付いただろう?人だかりに紛れた彼など、微かにしか見えなかったのに。
「し、知らん!どうせ色んな者に貰ったのだろう。僕のは必要ないだろう?」
「俺は、お前のしか欲しくないぜ?」
真っ直ぐに直視される緑柱石。まさか、そんな筈はないだろう。脳は否定を続けているが、胸に甘い期待が躍る。
本当に、渡して食べて貰えるのだろうかと、猜疑心と期待が鬩ぎ合っていた。
セロファンを包む指が触れる、口に運ばれて、消える。
「Thank you! 美味かったぜ」
嗚呼、その言葉が聞けたのなら。
頬が緩んでいるだろうけれど、そんなことなど気になど留めていられなかった。
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