けほ こほ こほん。
空虚な咳が広い室内を埋め尽くしていた。ベッドに体を横たえる少女の眼窩には星空と真っ青な惑星が映っている。
金色の髪をベッドに広げたまま、汗ばむ体をどうにか冷却できないかと少女は僅かに体に掛けられた上掛を払いのけた。
その気配にはっとしたのか、緩やかに近付く影がそろそろと少女の横まで歩んでくる。

「……マリア?」

控えめに声を掛けられたマリアという名の少女は、その姿を確認すると途端に柔らかな笑みを浮かべてその姿を見上げた。
ベッドの横に漸く顔が見えるくらいの、そんなに高くもない身長の、しかし生命としてはとても大きな漆黒のハリネズミ。
その刺の先と眦には炎のごとく紅が走り、その姿を更に特徴的にしていた。
先程までの様子からしてかなり苦しい筈だというのに、マリアはどこも辛くないのだと言わんばかりに穏やかな、優しい笑みを浮かべている。

「…………シャ、ドウ……いて、くれたの……?」

マリアが震える指先をそろりとシャドウへと向けていった。その細い指を体に反して大きなシャドウの手がそっと包み込む。
金紅の瞳が心配で仕方ないと言わんばかりに揺れてはマリアの姿をその眼に映し出していた。
大丈夫、と笑みを浮かべるマリアの額には大粒の汗が浮かんでいる。大丈夫じゃないということは火を見るより明らかで、シャドウの胸にちくりと痛みが発した。

究極生命体は不老不死の存在だ。
そう教えてくれたのはマリアの祖父であるプロフェッサージェラルド。
彼はシャドウの研究が上手くいけば、マリアが助けられるかも知れないという事実をシャドウに伝えていた。
彼女が笑ってくれるなら。自分の命が彼女の為に使われるなら。
シャドウの選択肢に拒否という文字は初めから存在はしていなかったのだ。

「……マリア、もう少しだけ我慢してくれ。
 もう少しで、薬が効いてくるから。そうしたら、楽になるから」

隠しきれない荒い息づかいを、まるで自分のことのように辛そうにシャドウは眺めていた。
実際、彼の体に痛みなど殆ど存在しない。不老不死というラベルが貼られている以上、どれ程に傷を負っても、それは瞬く間に治癒してしまう。
それでもその僅かな苦しみが持続しているのだろうという意識は、そのままマリアへの気遣いに変わっていく。
どうしてマリアでなければいけなかったのだろう、とシャドウはどうしようもないことだと解っていながら考えてしまう。
何億分の一の確率で発症するこの難病が、どうしてマリアの身に現れてしまったのだろうか。

神さまは、それを乗り越えられる人にしか試練を与えないのよ、と以前マリアは微笑を浮かべながらそう言っていたけれども。
やるせない気持ちがその胸中を埋め尽くしているというのもまた事実であった。
あるいはプロフェッサーの孫という特殊な位置であるから、彼女を病魔から救える存在だからこそ、その最愛の孫娘にその運命を架したのだろうか、とも思ってしまう。
そうでなければ、シャドウは今この場所に存在しなかったのだから。

この力がマリアの為になるならば、幾らでもその力を奮うのに。
無力な僕はこうしてマリアが苦しそうにしている所を見ていることしか出来ない。
マリアの笑顔が見たいだけなのに。彼女が元気になってくれるなら。

「……ねえ、シャドウ……
 無理しなくて、いいの……よ?」
「マリア……?」
「わたしのために……シャドウが苦しまなくて、いいの……」
「……そんなことを言わないでくれ。
 僕は……いつか一緒に地球に行く約束を、果たしたいんだ……だから」

だから、君の代わりなんて居ないんだ。君しか居ないんだ。という言葉は結局は音にはならなかった。
マリアがその続きを言わせようとしなかったのだ。緩やかに首を振るその仕草は、ある種の拒否にしか見えなかった。
投与された薬が、緩やかにマリアの苦しみを緩和していく。呼吸が落ち着き、開かれていた瑠璃色の瞳は、微睡みの中に消失していく。

「……おやすみ、マリア」

眠るまで僕は此処にいるから、と呟く、漸くの安堵に近い柔らかな笑みを浮かべたシャドウの表情を霞む視界の中、マリアは微笑みながら見ることしか出来なかった。







シャドウ……。
きっとわたしは、あなたと一緒に地球へは行けないわ。
行けたらとても素敵なことね。そうなれたらどんなに幸せかしら。

わたしの存在は、きっとあなたを苦しめてしまう。
でも、そうやってあなたが笑ってくれるから。わたしに笑いかけてくれるから。
ずっと一緒に居たいと、不釣合いな願い事をしてしまうの。


あなたいがい 
       要らないの。
君いがい







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