甘い味を楽しみましょう?
「ねぇねぇしゃどう!ばれんたいんってなぁにー?」
如月も中盤に差し掛かりそうな程。膝の上で読書の妨げになっていた小さな獣が徐に口を開く。
ふわふわとした皮毛は手入れも行き届き、さながらベルベットの手触りだった。
毎日ブラッシングをした甲斐があったな、と思う。艶やかな毛並みになったことが誇らしい。
そんな事を考えている間に、何とも答えに窮する質問をされることになろうとは。
どうやらまた彼に入れ知恵をされたらしい。口を吐く溜息は留まりを知らなかった。
聖バレンタインデー。昔の御伽噺でいうのなら、
戦争へ行かなければならない恋人との結婚を許し、処刑された神父を讃える日だったか。
それがどう歪曲されて恋人が愛を確かめ合う日になったのかは解らない。
大方棒チョコレート会社の陰謀に違いないのだが。
「そうだな…大切な人に贈り物をする日、だな」
あながち間違いではない答えを口にする。大元の大元はこれなのだ。
しかし目の前の獣は唇を尖らせる。僕からの答えがあまり気に入らなかったらしい。
「そにっくは、だいすきなひとにちょこをおくるひだっていってた!」
違うの?と首を傾げるその仕草は愛らしかった。
無意識に無防備な表情を浮かべるのは反則だ、と思う。
にこり、と花の蕾が綻ぶように獣が笑みを浮かべる、
頬は淡い桜色に染まり、照れを残すその表情は恋をする乙女と相違ない。
「だから、しゃどうにちょこつくってあげる!」
満面の笑みでそう言われてしまえば、それを拒絶する理由など無くなってしまった。
ケトルに水を張ってコンロに乗せ、つまみを捻って沸騰を待つ。
せがまれるままに買わされたクーベルチュールのホワイトチョコレート。
興味津々に見つめる金色の瞳がこそばゆい。一人でさせては悲惨なことになりそうで、
僕も一緒にやると言わざるを得なかった。彼にこれを見られたらまた腹を抱えて笑われるのだろう。
ナイフを握らせる訳にはいかなかったので、そこは自分が担当することにした。
常温に晒しておいたチョコレートは指で触れれば柔らかな感触と共に緩く溶ける。
少し暖めたナイフを通せば、少し引っかかれど簡単に細かな粒へと変化していった。
シュワシュワとケトルが沸騰を知らせる。細かく刻んだチョコをボウルに移し、
チョコレートを放り込んだボウルよりも少し大きめのボウルに沸騰した湯を注ぎこんだ。
たぷんと湯気が立つボウルの上に、少々の不安定さと共にチョコレートの入ったそれを乗せる。
暫くすれば、ボウルに触れているところからとろりと甘い香りと共にチョコが溶けだした。
朝露を受けた白百合のような艶やかさを表したそれを、ゆっくりと静かに掻き回す。
脳を内側から麻痺させてしまいそうなほど、濃厚な甘やかな芳香。
隣を見れば、うっとりと陶酔したような表情で金色がまどろんでいた。
そういえば、甘いものは好物だったか。指でとろけたチョコを掬う。
生ぬるい感触と共にそれを獣の口元へと運べば、ふにゃりとした笑顔と共に指に自分よりも高い熱を感じた。
絡まる舌の感触。窄まった口から指先を引き抜けば、もっとと言わんばかりに追いかけてくる。
もう一掬い。差し出せば何の疑問もなく口にされる。熱に、香りに侵される気分だった。
「しゃどう」
獣の煌く金色が、どこか揺れて艶めいている。短い小さなその指が、ボウルに浸かる。
白に白が絡まって、唇で咥えれば甘い甘いその香り。ドロドロと脳が溶けていく。
もう一度、と白に指が埋まる。そのまま不安定なボウルが揺れる。カタン、と硬質な音がしたと思った、直後。
クルリと回ったボウルが、斜めに転がる。
広がる 甘い 独特の香り。
気付けば自分の衣服に溶けたチョコレートが広がっていた。落ちたそれに指を絡めれば、べたりと指に広がっていく。
落とすとかそういう問題ではなく、洗濯するもなにも自分の髪にまで付着してしまっている。
一苦労そうだと溜息を吐けど、上に乗った獣はそんなことは気にしてもいないようだった。
「おれがきれいにしてあげる」
頬に、髪に唇の感触、ザラリとした舌から、甘いチョコレートの匂いがする。
楽しそうにしている子ハリネズミを止めるつもりもなくなっていた。もう好きにさせてしまおう。
このまま洗い流すのも、あとで一緒にシャワーを浴びに行くのも同じことだ。
チョコレートの残り香だけが、砂糖菓子のように脳を焼き尽くす。
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