「どうして行ってしまうの?あんなにも一緒に居たのに」


────聞こえぬ筈のコエが、鼓膜を震わせる。



始まりは、ほんの些細な事。
他人なら、何とも思わないであろう、微かな合図。
しかし心的外傷(トラウマ)を持つ者ならば、それは充分過ぎる程の引き金。
嗚呼、彼は惨劇の扉を開いてしまった。



【Ark】



かつて、世界を救った二人の英雄が居た。
彼らは強く優しく、愚かしいこの世界に希望を与える為に、己を犠牲にして戦い、そして英雄は崩壊を防いだ。
但し、その代償があまりにも大きい事だとは、誰一人気付かれないまま、膨大な時間が過ぎてしまった。



欲望渦巻く愚かしく浅はかな薄っぺらいこの世界。
それをまるで月(ルナ)のように見守る人の知識と技術の結晶の中に『彼』は眠り姫宜しく横たわって居た。
シェルターのようなカプセル型の容器(ベッド)の中で、彼は無数のコードに繋がれながらも、静かに眠っていた。
先のこの惑星(ホシ)を護る為に己の力を解放し、体への過剰な負担により、
最後には爆発に巻き込まれ、皆の前から姿を消してしまった、不老不死の究極生命体─それが彼だった。
しかしそんな彼ですら、負荷があまりにも多かった為か、ここ数年、目覚める兆候は一切見られなかった、のだが。
奇跡を呼ぶ宝石─カオスエメラルド─の影響なのか、時折僅かながらも反応が見られるようになった。
身体ではなく、精神の方に。





どれ程の時間、そうしていたのだろう。
暗闇の中から彼が意識を浮上させ、瞳を開いた時、そこは無機質な容器の中ではなく、白く柔らかなシーツの上だった。
その部屋は見慣れた希望の箱船の何処かである筈なのに、彼には全く覚えが無かった。
何よりもこの部屋は異様なまでに広く、しかも置かれている調度品は今彼が横たわっているベッドだけで、視線を回しても後はそれらしきものは見当たらなかった。
只大きく切り取られた窓から見える青く輝く惑星が彼が今箱船の中に居ると言う真実を伝えていた。
どうしてこんな所に居るのか…思い出そうとすればする程頭は鈍器で殴られたような痛みを発し、体は鉛のように重く、両手に見慣れた金色のブレスレット(制御装置)は無かった。

嗚呼…僕は…

あの飄々とした音速を誇る少年と、あの惑星を護ったのだった…と、シーツに身体を埋めながら、ふと自分に姿が良く似た少年の事を思い出した。
軽く視線を窓へと向ければ、まるで碧玉(サファイア)のような美しい宝石が輝いている。
その時、彼の脳裏に金髪の少女の姿が回想(フラッシュバック)された。

…M a r I A

生まれた頃から病弱で、この箱船の中でしか生きられなかった、彼にとって姉のようで妹のようだった、悲劇の娘。
彼女の『願い』を叶える為に、彼はあの惑星を護ったのだった。彼女が最期に遺した、たった一言。

「あの惑星に住む全ての人に─」

そう。あまりにも優しい彼女は、自分を殺そうとする人の風上にも置けない者達を赦したのだ。
たった一人の、彼の聖母(マリア)。
気付けば彼の頬には透明な雫が伝っていた。例えばあの事件さえ起こらなければ、もし彼女があの世界に行けなかったとしても、
彼の隣で現在(イマ)も笑っていたかもしれないのに。それすら彼らは踏みにじった。
そう、この箱船に『強大な力』がありさえしなければ──


…待て。

その『強大な力』は

僕の事では無かったのだろうか。


耳障りな耳鳴りが頭の中を駆け巡る。中身が沸騰して溶けてしまいそうな程それは強く、彼の只でさえ自由の利かない身体を更にその場に縫い付けた。
脳の中で羽虫が何万と羽ばたいているような錯覚を覚え、意識を飛ばしそうになったその瞬間、彼ははっきりと少女の声を聴いた。

「うふふ…やっと気付いたの?シャドウ」

それは、聞き間違える事も出来ぬ程、死刑宣告のように透き通った、凛とした彼女の声だった。
シャドウと呼ばれた彼は、頭の上から降って来た声に硬直するしか無かった。顔を上げようとすると、それを全身が拒否した。
既に居ない少女の声が、どうして今此処に存在する筈がない。これは幻覚なのだと、彼は自分に言い聞かせた。
それならば、何故

僕はこんなにも怯えているのだろうか?

彼は直感的に理解っていたのだ。
これは間違いなく現実で、目の前に立つのはかの少女である事を。

「ふふ…シャドウ、思い出したの?どうしてわたし達が、この箱船から追われる事になったのか」

相変わらず優しく語りかけられる言葉、それに耐えきれずに彼は勢い良く顔を上げた。

其処には──



真っ白なワンピースを深紅に染め抜いた、優しい笑みを浮かべた少女の姿



一瞬で全身が粟立つ感覚。その凄惨な姿とは裏腹の、穏やかな微笑。それはあまりにも不釣り合いな姿だった。

「シャドウ、あなたが生まれなければ、わたし達は死なずに今も幸せにいられたの」

薔薇色の唇を笑みに変え、彼女は尚も言葉繰り返す。

「それなのにあなたは、自分が侵した罪すらも覚えていないのね」

それは幾度となく彼の心にナイフを突き立てる。

「その上、わたしの最期の願いすら叶えてくれないなんて」

…今、彼女は何と言った?
最期の願いは、あの惑星に住む全ての人に───

「そう、全ての人に──復讐を」

頭を、大きく硬質なモノで力任せに殴られたような気分だった。
それは、彼が世界を救う直前まで捕らわれていた言葉であったからだ。

「マリアを奪った全ての人に、復讐を…」
「そう。シャドウはあんなにわたしの為に頑張ってくれたのに、どうして変わってしまったの?」

ぽつりと彼が呟いた言葉に、彼女は酷薄にも残酷な笑みを浮かべながら傷口を更に抉った。


嗚呼、どうして僕はあの子供の言う事など信じてしまったのだろう。


頬を伝う涙が、止まらなかった。自分があの惑星を護った時、目の前に居る彼女は何を思ったのだろう。
彼女の願いを叶える事こそが自分の存在理由であった筈が、知らず知らずの内に最低な裏切りをしていたなど、彼は信じられなかった。
否、信じたくなかった。

「あの時変わりさえしなければ、こんな事にはならなかったのに」

「可哀想なシャドウ…あんな子供一人に心奪われてしまうなんて…」

「あんなに一緒に居たのに、わたしよりあの子供を選んだのね」

言い聞かせるような慈愛の口調で、砕けた硝子のように鋭く言葉を突き刺す。
茫然自失となった彼の右手には、何時の間にか拳銃が握られていた。

「可哀想なシャドウ…今わたしが助けてあげる…」

少女はまるで聖母の笑みを浮かべながら、彼の手に己のそれを重ね、拳銃を彼のこめかみへと当て…




瞬間、彼の脳に激痛が走った。
















純白なシーツは彼のそれで少女のワンピースのように染められた。
頭を撃ち抜かれても尚、彼の意識は保たれたままであった。

「ふふふ…そうよねシャドウ…あなたは究極生命体なんですもの……
 死んで懺悔をする事も出来ない……ふふ…うふふ…あはははははははは!」

高らかに少女の嘲笑が部屋に響く。
美しい金紅の瞳は既に仄く濁り、二度とモノを映す事もなく、少年は紅く染まったシーツの海に沈んでいた……
















箱船に警報が響き渡る。モニター室に居るのは彼によく似た青の色彩を纏った少年と、金色の二本の大きな尻尾を揺らす幼い少年。
金色の少年は必死な形相でキーボードと格闘している。青の少年は、モニター室の真ん中に鎮座された容器を力任せに叩いていた。

「シャドウ!目を覚ますんだ!」
「駄目だよソニック、シャドウの意識に反応が無いんだ…」
「くそっ…おいシャドウ!マリアがそんな事を言う訳ないだろうが!」

モニター室の一番大きな画面に、心が壊された彼が映っていた。
少女の勝ち誇ったような声が、箱船全体に響き渡っていた……













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Sound Horizon様の楽曲の中に【Ark】というものがあって、
アークと言えばシャドウしかないだろう!と思ってその曲をベースに書き上げた産物。